【学校再開】

一夜明け、十五日正午、天皇自らの放送による終戦の詔勅が発せられ戦争は終わりました。しかし生き残った先生や生徒は、そんな事は知るよしもなく焼けただれた工場を掻き分けて必死で行方不明になった仲間を探しました。
 結局、この爆撃で七百三十八人の人が亡くなりました。うち動員学徒は百三十三人、山ロ中学校生徒の犠牲者は十六人でした。
池田  栄君(いけだ・さかえ)
戸嶋 郁雄君(としま・いくお)
曲田  博君(まがりだ・ひろし)
吉富 弘明君(よしとみ・ひろあき)
上田 悦三君(うえだ・えつぞう)
平田 博惟君(ひらた・ひろただ)
松本 高治者(まつもと・たかはる)
芳西庄太郎君(ほおにし・しようたろう)
糸賀  潔君(いとが・きよし)
中島 唯雄君(なかしま・ただお)
松村 岩忠君(まつむら・いわただ)
多田  孝君(ただ・たかし)
田代 和生君(たしろ・かずお)
古田  豊君(ふるた・ゆたか)
三島 一郎君(みしま・いちろう)
山田 勝康君(やまだ・かつやす)
今なら高校1年生、みんな十五歳か十六歳、文字通り“花も蕾の若桜”でした。

一旦、光会館に安置された遺体は十六日夜、主機工場の海岸で焼かれ、白い布に包まれた遭骨は級友に抱かれて、一年振り懐かしの母校に帰ったのです。二十三日には学校葬として慰霊祭もしめやかに行われました。すでに戦争は終わっていました。もう一日、終戦が早かったら・・。遺族や級友の胸に悔しさがよぎり痛恨の涙を流しました。

 まだ登校出来ない負傷者は沢山いましたが、二学期から、昔通り授業が始まり、翌二十一年三月、約五十人の生徒は五三期生として卒業しましたが、四年に短縮されていた修業年限が、その年からまた五年に復活しましたので、大半は五年生に進級、二十二年三月に五四期生として巣立って行きました。卒業生名簿では五三期、五四期と二期に別れていますが実際は昭和十七年に入学した同級生で、光で亡くなった十六人も全員五三期の卒業生として認定されております。
 次の年、学制が改革され、山口中学校はなくなり新制の山口高等学校と変わりました。