【石碑建立】

それから二十余年が経過しました。日本も戦後の混乱から立ち直り色々な方面に進んだ同級生も皆、社会の中堅として活躍するようになりました。しかし平和な時代が続き経済が発展するにつけ思い出されるのは若くして散った十六人の仲間のことです。それまでも県護国神社で慰霊祭を行っていましたが、昭和四十五年開かれた同期会で皆がお金を出し合って母校の庭に亡き友の慰霹碑を作ろうという話が持ち上がり、幹事は全国に散らばっている同級生に呼び掛けました。建設費はまたたくまに集まり、四十六年二月に関係者が集まり地鎮祭、起工式を行いました。台座の下には、戦争中、皆で踏み締めた光海軍工廠の砂を敷きつめました。
 石碑の制作はイタリアで彫刻を学んで帰国したばかりの山口大学の伊藤 鈞(いとう・きん)先生にお願いしました。伊藤先生はイタリアのトラバルチン産の真っ白い大理石の原石を取り寄せ、削岩機で取り組み一年半かかってって彫り上げました。先生は若くして散っていった十六名の魂に思いをはせ、こうした悲劇を再び繰り返きないようにと願いつつノミを振るったと語っておられます。石碑には学びの庭から頭をうなだれ重い足取りで去って行く少年の丸彫りと、呼び戻すすべもなく悲しみに耐え少年を見守る母穎の浮き彫りが刻んであり、これを平和のシンボルの鳩がつないでおります。
碑文には、その時の山口高校校長の白上正二(しらがみ・しようじ)先生の筆で
 『時和二十年八月十四日正午すぎ 米軍B29の爆撃は光海軍工廠に学業なかばにして動員されていたあたら春秋に富む十六名の友の命を一瞬のうちに奪い去った
なき友をしのぶ情さりがたきわれわれは 同じ悲命の死を遂げた下級生二名を加え ここに若くして逝った十八のみたま安かれと祈りつつこの像を建てる』と青いてあり、十六のほか、新南陽市の東洋達に動員中、空襲で死んだ五五期の植木茂(うえき・しげる)君、勤労作業で豊浦郡小串の土木工事に出かけ病死した五六期の小幡敬三(おばた・けいぞう)君の名前も刻んであります。
 慰霊碑は昭和四十七年夏完成し八月十二日、遺族の手によって除幕されました。亡くなった吉富君の父親、吉富幸助さんは遺族を代表して「国のため命を捧げた息子たちの死を無駄にしないで欲しい」と涙ながらに訴えました。
以来、毎年、命日の八月十四日には同級生が碑の前に集まり、花を捧げ、「動員学徒」の歌を歌って慰霊祭を行っていますが、誰言うとなくこの慰霊碑は『平和の母子像』と呼ばれるようになりました。

平成七年、あの爆撃の日から五十年経った八月十四日、同級生約五十人はバスで今は武田薬品工業や新日本製鉄の工場になっている光海軍工廠の跡地を訪れ、昔を忍びました。
工場はすっかり生まれ変わっていますが、当時の防空壕の一部はまだそのまま残っています。工場跡地にも犠牲者の慰霊碑が建てられており、参加者はこれに菊の花や線香を供えて若くして散った同級生の冥福を祈りました。