【草鞋に語る1】                             
戸嶋朝枝
 
 テレビの古里の歌まつりは、わらじ奉納の神事を賑やかに報じている。十数人の男達にかつがれた大わらじが、ワッショ、ワッショと登場すると、無病息災、五穀豊穣を祈る農民達が、草鞋に触れる、下をくぐる。
 農家でも、「もう草鞋作りの作業を知っている人は数少ない」と言っていた。
 私は、思わず立って私一人の秘密の宝を見に行った。やっぱりあった。祖母が嫁いだ時持って来たと言う黒塗のタンスの隅の方に。山中のネーム入りの運動シャツに丁寧に丁寧に包んである草鞋…。着古び、汗汁の染込だ運動シャツは、二十六年の歳月に朽ち茶褐色と化して、何でこんなに大切そうにしまってあるのか?
 いいえ、しまってあるとも思わないでしょう。「鼠がいたずらにこんなものを喰え込んで、草鞋でもないらしいし、見た事もないし…」と思うでしょう。外は、今夜もあの晩の様に時々氷雨が降っています。草鞋さん!!貴方は我が家では「坊や」の愛称で呼ばれていましたね。
 あの晩の事…今想い出しても、昨晩のことのようにお母さんの脳裏にきざみつき、足の緒ずれが痛む気がします。
 あの晩、昭和二十年一月十三日の晩??。
 お正月の休日もなかった貴方は、誰に伝言すると言う事もなく、「十三日の日曜頃は、帰宅が許されれそうな、帰れるなら、美祢線で帰る」ということでした。
 当時は現代の若い人が信じられないようなことを、皆んなが堅く守っていました。
 私用の電信電話は取り上げられない、軍の秘密として軍需工場に働くものは勤務の状態、仕事の内容など話してはならない、休日はその日まで知らされていない、等々でした。
 半信半疑のままお母さんは、蒸し芋とおにぎり、それに歩くための草鞋を二足ずつ袋に入れ、当時は列車数も少ない山陰線上りの終電車に乗り、正明市駅に降り美祢線の終列車の到着を待ちました。
 終列車到着時刻は午後十時五十分。
 帰れるかしら?帰れないかしら?
 何さえ確実なよりどころもなく、寒い寒い待合室で不安とイライラした気分で一時間を過ごしました。もし帰って来なかったら自分はどうしよう、どこへ泊めてもらおうか、この寒さに…。昨年(昭和十九年)九月二十二日秋分の日は、甘柿を沢山持って小夜子(郁雄の妹)と光に慰問に行き、帰途はやっぱりこの終列車で下車し、致し方なく一晩を駅の待合室で明し、翌朝一番列車で帰宅した…。あの時は九月だったけど無人の待合室は随分冷え込んだ…。今夜はこの寒さ、時には白いものもチラつく。