【草鞋に語る3】

「家では貴方が居たのか居なかったのか案じているだろう。帰ったら一番先に何を食べようかネ!」
 「熱い熱い味噌汁がいいかナ」
 「砂糖があったら汁粉が食べたいナー」など。
 主として食べ物の話ばかり、道端の家からポツンと灯が見えて、何かゴトゴトと音もするようだ。知った家でもあるし、声をかけて見た。はきかけの草履でもいいから恵んでもらうつもりだ。小母さんはひょっこり私が入ったので、「何事ですか」とびっくりしたが、訳を話すと心よく承知してくれて、
 「お坊ちゃんですかナー、まあ大きくなられてどこの兵隊さんかと思ったワ、光に行っておられると聞いていたが、大旦那様がさぞやおいたわしやと思っていなさるでしょうにナー、勿体ない事ですノー」と言ってくれた。小母さんも、牛の鳴き声が悪いので気になって起きて見た、と言うところでした。
 やっと家にたどりついたら午前六時、まもなく夜が明けた。貴方はお風呂に入ってお父さんから背中をながしてもらい、散髪もしてもらった。やっぱり愛称どおり坊やさんだったのです。食べたり、話したり、友達のために凍傷の薬を作ってもらったり、一ねむりする時間もなく、午後にはまた出発して行きました。半日の暮らしを、祖父母、両親、妹達と楽しんだ貴方は、あれきり家に帰りませんでした。

 二足の草履は破れたが、一足の草鞋はあの時残された。
 貴方は爆死してしまって何の形見もない。親友が、せめてもの名残と切り取って下すった十数本の毛髪とこの草鞋、それにネーム入りの古い運動シャツ、ただこれだけ、…あれから二十六年の歳月が流れました。
 貴方の遺骨の帰った日、
 「こんな姿では家に入れない!」と狂った様に泣かれたお祖母様も「坊やが死んだ、郁雄が死んだ!」と泣き言をくりかえし、とうとう狂ったまま死なれました。自分の孫の村葬を執行された当時の村長のお祖父様は、断腸の想いを一切の公職から去って俳句の道に静かな余生を過ごされ、九十二歳の長寿を保たれて死去されました。
 お父さんも七十二才、お母さんも六十五才を迎えました。倖いに元気にしています。
 貴方に再会できる日もあまり遠くない、とむしろ楽しい気がします。
 外はあの夜の様に氷雨が降りそそいで、一段と冷え込んで来ました。
 二十五年間胸にたたんでいた涙ですが、想いはいつも貴方と共にありました。
 終りに一つ???
 宅葬をした日、学校から担任の高橋先生、級友を代表して親友の岡村靖君が列席してくださいました。そして高橋先生が、
 「戸嶋!!お前はこんなにも遠い僻地から来ていたのか…・?そんな事とも知らず、ただの一晩もゆっくり両親のもとで眠らせてもやらず俺は鬼だったナ?。許せよ。戸嶋!!」となぐさめて下さいました。
 
 「動員学徒二十五年記念誌」発刊にあたり、このつたない一文を故郁雄への手向草として捧げます。                               母より