「平和の母子像」
 山口県立山口高等学校・・。正門を入るとすぐ左側の小さな庭の木立の中に白い大理石の像が立っているのを御存知でしょうか。「平和の母子像」と呼ばれています。この像はどうして建てられたのか。この「平和の母子像」の由来についてお話ししましょう。

【学徒動員】


 大本営陸海軍部発表・十二月八日六時 帝国陸海軍は本八日未明 西太平洋上において米英軍と戦闘状態にいれり。

一九四一年・昭和十六年暮れに始まった太平洋戦争。開戦と同時に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲するとともに、マライ半島、フィリピンなどに上陸、破竹の進撃を続け、昭和十七年三月中旬までに、香港、マライ、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、フィリピンの大部分とビルマの中心部以南を占領し、中部太平洋のグァム、ウエーキなど重要な島々をとり遠くビスマルク群島のラバウルにまで進出しました。この勝利に国民は熱狂しました。平和の母子像を建てた山口中学校の第五三、五四期生は、その最中の昭和十七年四月に入学しました。
 しかし、その年の六月、ミッドウェー海戦で最初の敗北を喫してから形勢は逆転、米軍は猛反攻を始め、ガダルカナル島の攻防戦で負けた日本は陸軍も海軍も太平洋戦局の主導権をアメリカに奪われ防戦一方になってしまいました。

 南太平洋の各戦線で敗退を続ける日本軍の兵力不足は、学徒が学業に専念することを許さなくなりました。十八年十月、それまで兵役が延期されていた大学生の徴兵を決めました。十月二十一日には、明治神宮競技場で、降りしきる雨の中「学徒出陣壮行式」が行われ、ペンを銃に持ち替えた大学生たちは華々しく戦場に送り出されて行きました。
大学生だけではありません。軍需工場の熟練工までも、皆軍隊に召集されましたので、軍需生産の能力がどんどん低下して行きます。これを補うため、昭和十九年になると、政府は学徒動員令、女子挺身勤労令を公布、今度は中学生や十二歳から四十歳までの未婚の女性が軍需工場にかり出されて行ったのです。
山口中学校でも三年生以上の約六百人が一学期の終わった七月末に光市の海軍工廠に動員されました。

光海軍工廠は昭和十五年、世界最大規模の兵器工場をめぎして造られたもので、従業員三万六千人、面積八十八万坪、敷地面積では日本最大で弾丸、爆弾、水雷など各種の兵器を造る工場です。有名な特攻兵器・人間魚雷「回天」もここで造られました。