【空襲】

 殆どの者が親の元を初めて離れての寄宿舎生活。山中生は全員「水雷部」に配置され、寄宿舎から約四キロの道を工廠へ通い、日勤、夜勤に別れ、慣れない手で水雷の部品の製造や組立に当たりました。仕事は言うまでもなく食事当番も洗濯も皆初めての経験。仕事のない時は軍事教練や防空壕掘り。一番悩まされたのは空腹です。育ち盛りの少年の前に出される食事は雑穀の入った“黒い飯”と海草が浮かんでいる薄い味噌汁。それでも「戦争に勝ち抜くために、一発でも多くの魚雷を、弾丸を・」と歯を食い縛って頑張りました。
戦争は益々激しくなり、主要都市は連日、空襲に見舞われます。それまで五年だった中学生の就学年限が四年に短縮され翌二十年三月には、五年生と四年生は工廠の食堂で同時に卒業証書を授与されるという異例の卒業式を行い巣立って行きました。
四年生に進級した五三期生は引き続き動員生活です。硫黄島も沖縄も占領きれ敗色は日に日に濃くなり広島、長崎には原子爆弾が投下され、もろ敗戦は間違いないという時、運命の日はやって来ました。

昭和二十年八月十四日。その日は朝から、からりと晴れ、真夏の太陽がジリジリ照りつける暑い日でした。お盆ですが作業は平常通り行われ日勤者は朝礼の後、何時もの通り仕事を始めましたが、午前十時頃、空襲警報が発令されて全員廠外に退避しました。この時は岩国市の麻里布(まりふ)操車場が爆撃を受け、光の上空は米軍の偵察機らしいものが二機やって来ただけで何事もなく正午頃、警報は解除されました。
 全員、お腹をすかせて廠内に帰り、遅い昼食が始まった時、いきなりドカーンという轟音が響き水雷部の食堂が揺れ辺りは真っ暗になりました。警報も出ないのにB29の来襲です。その場に倒れる者、食卓の下にもぐり込む者、外へ逃げ出す者・…楽しい食堂は、一瞬の中に炎に包まれ、阿鼻叫喚の巷と変わりました。
 負傷しながらも、一命は取りとめた伊藤格(いとう・ただす)君は当時の模様をこう書いています。
 『突然、目の前に真っ赤な光が走り、食堂が一挙につぶれた。「爆撃だ・・」私は慄てて食卓の下にもぐり込んだ。このままでいるのが安全か、食堂を出て廠外に逃げるのが安全か、迷ったままじっとしていたが、埃がおさまり窓近くの席から逃げ出す姿が続くのが見えて来るのにつれて、我慢が出来なくなり、潰れた窓から飛び出して、工場に向かって走る人の後について死物狂いで走った。前を走る女事務員が振り返って何か言ったと思った時、空気が大きく波うちながら襲いかかって来た。波動の中から煉瓦が飛んで来るのが見えた瞬間、意識がなくなった。気がついてみると工場の入口で倒れていた。動けない。右手、右足から出血、何よりも体が右に大きく湾曲して動くことが出来ない。そのうち爆音が大きくなって来た。迎え撃つ高射砲の音がする。続いてザーツと雨の降るような音。爆弾の落下音だ。破裂する音、破片が体に突き刺さる。そのあとから吹き飛ばされた木や石が落ちて来て痛い。このままでは死んでしまう。僅か一〜二メートルを時間をかけて工場の中に這って入った。中は地獄絵そのまま。一面に死体が転がっていた。数分前まで一緒に食堂にいた仲間が千切れていた。大きな梁が燃えてその下に仲間が居た。どうすることも出来ない。次から次へ同じパターンで爆弾が降ってくるこの時、始めて「死」を覚悟した』・・・以上が伊藤君の手配です。